「黒猫のためのパッサカリア」試し読み1


春の同人誌新刊「黒猫のためのパッサカリア」
試し読み第一回です。
商業誌「さよならトロイメライ」の番外編。黒田の話です。
大丈夫そうだったら最後までおつきあいいただけましたら幸いです。

「さよならトロイメライ」開始の段階で、黒田がすでに一人なので死にネタ含むです。
お嫌なかたは気をつけて。

大丈夫そうな方は続きからどうぞ。
本は、3/5 Jガーデン新刊、間に合わなかったらその近辺で出します。

 

 

 

 

 

 

黒猫のためのパッサカリア

試し読み1

 

 
嫁入りのようだと、籠の中で黒田為八郎(いはちろう)景明(かげあき)は思っている。
御簾が垂れた漆塗りの籠の中には、錦糸の刺繍の敷物がある。窓の外には紅白の房が垂れ、御簾の隙間から見える路肩には、どこのお姫様の輿入れだろうかと伺うような、町民の姿が見えている。昨夜結い直したばかりの髷から香る鬢付け油。新しい紋付羽織袴からはまだ糊のにおいが鮮やかだった。
しかたがなかったのだと、とっくに諦めていた。武士の子である自分が、商人の家へ奉公人として入るのは屈辱以外の何ものでもないが、意地と誇りでは飯が食えないことを十五の自分はとっくに承知していた。
えっほ、えっほ、という駕籠舁(かごか)きの声を聞きながら景明は静かに目を閉じた。再び籠の扉が開いたとき、自分は商家の使用人になる。
父は譜代の御家人で、身分ばかりは武士だったが家計は火の車だった。
武士の禄というのはすなわち米だ。通常、禄として貰った米の内、家人が食する分を除いたものを金品に替えて生活する。黒田家の禄は父が生まれる以前からずっと固定されており、物価が上がり、米の価格が下がれば生活が苦しくなる。最近は米を売ってもほとんど金にならず、父と兄が傘を張ったり鼻緒を作ったりの内職をしても、食うにも困る貧乏暮らしだった。
そこに遠江の商家から声をかけられたのだ。将来家令となる子どもを探している。黒田家から一人、子息を迎え入れたいのだが――と。
父ははじめ憤慨し、話を半分も聞かずにその場で断わった。
家令と言えば聞こえはいいが、つまりは商家の家来だ。城内にも出入りする大大名の御用商人で、大商家だということだが、それなら余計に、同じ大名の家来として商家に降るわけにはいかなかった。
だがその頃黒田家はますます生活に窮していて、月に二度は食べられた魚がほとんど出なくなり、昼は豆腐、夜は漬け物だけという生活が続いていた。
四日間粥ばかりになったとき、父が兄ではなく景明を呼んだ。
――奉公に上がってくれないか。
どこの家に行けと言われているのかは聞かなくてもわかっていた。あの商家だ。宗方(むなかた)という大名家付きの呉服所で、行儀に優れた、和算が得意な武家の子息を探しているという。
景明は塾で、年長の青年たちを凌いで和算が得意だったし、いずれ名のある数学者の門下に入るつもりでいたし、将来は数学者にと先生から勧められてその気になっていたのだが、現実を見れば無理だった。食うのがやっとで、数学にふけるような余裕は黒田家にはない。
まだ出仕の当てすらなくても、兄は黒田家の嫡男だからこれを奉公にやるわけにはいかない。
一応、父には嫌だと言った。
生活が苦しいのはわかっている。まだ幼い妹さえも、どこか将来の妻として引き取ってくれる家はないだろうかと探しているほどだ。
そんな中、自分が奉公に行くのは吝かではないが、どうか、どれほど貧しくてもつらくてもかまわないから、商人ではなく武家の養子に出してくれないかと頼んでみた。しかし父の答えは、よその家もうちと大差がなく、条件のいい養子の口は全部埋まっているということだった。
その宗方という家は大名よりも裕福なのだと、父は続けて説明した。貧富の別れかたがおかしすぎると顔を歪めてもいた。
侍は今、天と地ほどに生活に差があった。富めるものはとことん富み、窮するものは明日の粥にも事欠く暮らしだ。そして侍の間で汗にまみれてへこへこ頭を下げていた商人たちが、今やその富める大名よりも富んでいる。
特にその宗方家という商家は、大名の呉服を世話する商人で、大名たちの見栄を煽ってどんどん着物を買わせる世渡りの上手い商人だった。買う金がなくなったら刀を担保に金を貸し、それでまた呉服を買わせるというやり口らしい。そのうち金貸しや両替商も始めて、今や眠っていても滝のように小判が集まってくると言うのだ。
そんな宗方家から、譜代からの子息を家の要として迎え、大切にしながらより家を栄えさせたいという申し出だ。黒田家は今この有様だが、関ヶ原以前から徳川に仕えた由緒ある家柄だ。宗方はこの血筋と武家の行儀がほしいのだ。
行けば尊重され、大切にされるに違いなかった。毎日三食白飯が食べられ、魚もしょっちゅう食べられると言われている。景明の心を揺らがせたのはそれだけではなかった。
屋敷には優れた儒教者が出入りし、城に出仕するような和算の学者にも会えるという。
いいことしかない。今の生活とは雲泥の差だ。自分さえ首を縦に振れば、望んでもみない場所に容易に行け、自分がいなくなった食い扶持で両親や兄妹を楽にしてやれる――。
嫌だと言うのは景明の我が儘にすぎない。
侍の矜持というが、いずれ食い詰めるのが目に見えている。商人に降るくらいなら飢えて死んだほうがいいと、景明も思うものの、優しい母や兄、あどけなくあにうえあにうえと慕ってくれる妹の笑顔を見ていたらそれもできない。
景明は父の頼みを受け入れた。大名家の台所事情を知る御用商人である宗方の奥に入れば、二度と帰郷は許されないと聞いていたが、飢えて死に別れるよりましだと思った。兄は反対し引き止めてくれたが、最後にはすまないと言って、景明の手を強く握り、涙を零してくれた。
宗方家に返事をすると、さっそく吉日が選ばれ、刀は置いてくるように、迎えに行くから身一つでよいとの答えがあった。
金子が足りなくて、景明の元服のときにつくれなかった、黒田家の紋が入った羽織と袴を仕立てた。ほとんど養子に行くようなものだから、本来ならば最礼装の裃を揃えるべきなのかもしれないが、略装を仕立てたのは父の最後の足掻きだったのだろう。
約束の日になって宗方家から籠が寄越された。黒田家の身分では許されない扉つきの漆の籠で、あまりの上等さに長屋から出てきた野次馬で人だかりができるほどだった。
髷を結い直し、新しい羽織袴に身を包んだ景明は静かに籠に乗り込んだ。天気に恵まれた十日間の旅となった。
駿河湾の縁をなぞり終えた頃、最後の旅籠(はたご)に泊まり、身を清め直して早朝、再び籠に乗る。
窓から見える景色が、松林から城下町に変わってゆく。こんな町でも塗りの籠は珍しいのか、道ゆく人が足を止め、籠を見送っている。
やがて白塀ばかりの一角に入った。門や軒を見上げると武家屋敷が並ぶ通りのようだ。それを過ぎるとしばらくまた白塀に視界を遮られる。
ずいぶん長い塀だ。まだ続くのかと思っているとようやく門が見えた。そこで籠は止まった。
籠が地面に降ろされる感触がある。籠の中で待っていると知らない男が籠の扉を開いた。
「ようこそ、黒田さん」
いかにも商人風の鶯色の小袖を着た、中年の男だ。《宗》と染め抜かれた紺色の前掛けをかけている。
景明は籠を降りて立ち上がった。長時間乗りすぎて、身体が軋むがそこは我慢だ。
外に出てふと周りを見渡し、景明は圧倒された。白塀を区切るのは、瓦の乗った立派な長屋門だった。旗本だってこれほど立派な門はなかなか持たない。
あんぐりと開きそうになる口をきゅっと結んで景明は、足を肩幅に開き、ゆっくりと頭を下げた。
「黒田と申す。よろしくお頼申す」
「ええ、ええ、こちらこそ。ささ、こちらへ。長旅でしたなあ、お疲れでございましょ」
その愛想のいい物腰を見て、景明は絶望しそうになった。自分もこんなことをしなければならないのか。大の大人が初対面の相手に、しかも自分のような、ようやく子どもを抜けたばかりの若造に、そんなに腰を低くして笑顔を振りまかなければならないのか。
やはり商人の家になど来るのではなかった。食い扶持が足りないというのなら、本当に腹を切ったほうがましだった――。
ほとんど苦痛のような後悔に身を浸しながら門の中に入り、景明はふとあたりを見回して、ゆっくりと絶句した。
広い――。
白い砂利敷きの庭の奥に、唐破風の軒がある。寺のお堂のように開かれた玄関の向こうには勘定場があり、白足袋がちらちらと高速で行き交うのが見えている。壁際に無数の抽出がある。五月雨のように聞こえるのは算盤の音だ。格子の向こうに四人座っている男たちが弾いているのだった。
景明はこんな豪邸を見たことがなかった。自分たちのような御家人は大体長屋に住んでいて、父に連れられて旗本屋敷や金持ちと言われる譜代屋敷にも行ったことがあるがこれに比べれば甚だ質素だ。
地方と侮り商家と蔑んできたが、江戸の武士とは名ばかりではないか。
急に気圧されそうになる景色から目を伏せ、不安になる気持ちを引き絞り、屋敷の大きさに呑まれないよう息を止めて先ほどの男のあとを歩く。
男は景明を鏡のように磨かれた黒い板間の玄関に招き入れ、中へ上がるようにと言った。
奉公人たちが物珍しそうに自分を見ている。ぱっと見回すだけでも二十人ほどはいる。奉公人は多いと聞いたがいったい何人いるのだろうか。
男は景明を屋敷の奥へと案内した。廊下を歩きながら男が朗らかに言う。
「あたしは円井(まるい)と申します。番頭です、よろしゅうに」
何と応えればいいのか、どう振る舞えばいいのか返事もできずに景明は円井のあとを歩く。
「今日、旦那様は午後からご帰宅です。ご嫡男の清次(きよつぐ)さまにもこれから使いをやります。すぐに家令の東山(とうやま)さんが参りますので、家のことを聞いてください」
「……承知いたした」
自分はその東山という家令に着いて修練し、いずれ家令職を継ぐ。当主は宗方屋清左衛門(きよざえもん)、嫡男は清次。自分はこの二人に仕えることになる。
それにしても、と考えていたことがふと口を突きそうになって、景明ははっと噤んだ。
嫡男・清次。跡取りに次という文字をつけるのは珍しい。店を継げば清左衛門の名を継ぐからかもしれないが、商家の習いだろうか。
「さ。ここで」
景明の前で一枚の障子が開かれた。中は狭いが畳が青々とした新しい部屋だ。
「お茶を運ばせますから、ゆっくりなさってください」
「かたじけない」
「東山さんが来るまでにも小半時かかりましょうから、どうぞごゆっくり」
笑顔でそう言った円井は、しみじみとした顔つきで景明を見た。
「東山さんは厳しいかたですが、黒田さんとなら合うでしょう。あの方も武家上がりで」
仲間かと思えばいいのか哀れみあえばいいのか。しかしたったそんな情報にも少しほっとしながら、景明は勧められるまま部屋の奥に進んだ。一人でも武家の常識を知る男がいるなら、言葉の通じぬ異国のようにはならないはずだ。
「そしてもう一人、ご本家のかたがいらしてですね」
円井は硬い表情でそう言いかけて、妙な顔をした。
「……まあ、それはあとにしましょう。東山さんからでも追々。ささ、お楽に、お楽に」
次々と名前を聞かされ、あやふやに喋りかけにされて景明はただ戸惑うしかない。しかし円井にみっともないところも見せられず、わかった顔をして奥に座り、「それではごゆっくり」と言って出ていく彼を見送った。
人がいないと途端に静かになる。
遠くから小鳥のさえずりが聞こえ、微かに人の気配が伝わってくる。
景明は大きく肩でため息をついた。
十日にわたる籠の旅はさすがに疲れた。身体が軋み、尻が割れそうに痛む。籠が揺れるたび壁に当たった背中には痣でもできているのではあるまいか。
もう一度息をついたとき、何となく畳の青さが目に映った。
縁取りは紺色の錦、ゆっくりと目を上げると、障子は真っ白で少しの黄ばみもなく、柿の渋が染みこんだ柱は黒々と太く磨かれていて、屋敷の頑丈さを窺わせる。
円井の着物の上等さを思い出した。使用人らしい麻の着物に着こなれた羽織だったが、元々の布地がどれほど上等かは景明にも見ればわかる。あれに比べれば自分のこの染めのまだらな羽織袴の、いかにも薄っぺらく貧相なことか。
父母がない金を工面して仕立ててくれた着物に申し訳ないと思いながらも、目は嘘をつけない。
明日からここで暮らしてゆかなければならないのだ。貧乏侍と馬鹿にされはしないだろうか、商家の仕来りと折り合えるか。
そんなことを考えているとだんだん不安になってくる。
景明は、羽織を脱いで衣装盆に畳み、袴の紐を軽く緩めて立ち上がった。呑まれてはならないと思った。自分の恥は黒田家の恥だ。ここがどんなところであろうとも、堂々と卑屈になることなく、新しい自分の生き様を見つけなくては――。
十日間籠に押し込まれていたのだから、もう狭いところは飽き飽きだった。身体を伸ばして外の空気を吸いたい。部屋の中でなければどこでもいい。
部屋を出て、すぐそこの廊下を曲がれば中庭に続いていたはずだ。この様子では庭もさぞ見事だろうから目を休めさせてもらおう。
障子を開けると小さな中庭がある。岩の置かれた白砂利に、禅風の箒目をつけた一坪ほどの広さだ。
誰も人はいない。
景明は廊下を右に進んだ。すぐそこに曲がり口がある。
廊下の奥からは庭のまばゆさを示すような光が差している。太陽を追う植物のように、景明がそちらに踏み出したときだ。
まさにその廊下から、獣の子どものような唐突さで人が飛び出して来た。
大人ではない、かといって子どもでもない。年頃で言えば自分と同じくらいだろうか。いや身体が大きいだけの子どもかもしれない――と景明が思った理由はこうだ。
彼には月代(さかやき)がない。
子どもか、牢から出てきた者のように、頭全部を髪が覆っており、しかも全部短いのだった。
月代は大人の証だ。江戸では、月代のない男は出歩いてはならないという決まりがあるほどで、商人といえど男に月代がないなど考えられない。
彼はまったくまばたきをしない目で、ぱっと自分を見た。景明は驚き過ぎて声も出せずに息を呑んだ。そして彼は困った顔をしてから唐突に景明の手に手を伸ばす。
「頼むから一緒に来てくれ」
「な、何!」
「ついでと言っちゃなんだが、一生のお願いだ」
景明の手を引っぱりながら彼はそんなことを言うが、初対面の相手に一生の願いも何もあるものだろうか。
「あっ……? あ!」
男の手を払って立ち止まろうとしたとき、目の前に中庭が見えて、とっさに力が緩んでしまった。庭が見えたせいだ。――いや屋敷に四角く囲まれた庭の中央に、船が見えたからだった。
こんなところに? ――しかも大きい。
渡し船など虫けらのようだ。屋形船さえ話にならない。木造の家より大きな船が、船底を見せながら横たわっている。
ところどころに庭木がある。そこから蝶が羽ばたいている。笹の葉がそよぎ、足元は珊瑚のような分厚い苔が重なっている。
船底には穴が開いていて、そこに空からきらきらと陽が降るものだから、まるで水底の沈没船を覗いているような景色だった。
「こっちだ、早く!」
呆然としているところを強い力で手を引かれ、景明は誘われるまま庭に下りる。苔の上に踏み出したとき、足袋に水が染みて冷たかった。どこかから頬に雫が降ってくるのは、笹の露か、それとも濡れた船の帆からか。
船のすぐ側まで連れてゆかれた。触れられるほど側に行くと船はいよいよ大きかった。筋のようにしか見えなかった一枚の板が巨大だ。船底にはフジツボがこびりつき、潮が染みて黒くなり、あるいは藻のようなものが生えて苔を移したようだった。
あまりに大きすぎて、どこから見ればいいかわからなくなっている景明に彼は言った。
「すまん。本当にすまんが、その髷を切ってくれ。一生の頼みだ。この通り」
と言って自分を拝む仕草をするが、景明には男の言うことがサッパリわからない。一生の頼みに髷を切る。耳は聞こえているし、言葉はわかるのだが、言っている意味がさっぱり――……。
「……」
目を白黒させて、子犬のように黒くつやつやと光る彼の目を見ていると、彼は腰からさっと短剣を抜いた。
「本当に恩に着る。必ず俺が御家に詫びにゆく。だから辛抱してくれ、後生だ」
結ったばかりの髷を掴まれ、短剣を差し入れられる。
短剣はそれはよく研がれているらしく、まるでそうめんの束でも切るように、景明の髷をさっくりと切り取った。
「……」
彼の手に炭のように一本横たわる黒い棒を見ても、自分の身に何が起っているかわからなかった。数えるように無言で呼吸をした。
「本当だ。一生、恩に着る!」
間近で言われて、景明はそろそろと自分の後頭部に手をやった。
「……」
どこまで撫で上げても止まるところがない。あれこれと頭を手で探っていると、油で固められた切り口が、ざらざらと指に触れ、縄をほぐすようにばらばらになってきた。
「――え――……? ……えええええっ!?」
男の手にある自分の髷を見ながら、後頭部を押さえ、景明は悲鳴ともつかぬ声を上げた。
長旅を終えて新しい勤め先に入ったらいきなり髷を切り取られる。
どういうことだろうか、どうすればいいのだろうか、もしかして髷のない男など追い返されるのではないか、追い返されても江戸では髷がないと生活ができない。そういえばこのあと誰かが会いに来ると言った。髷のない姿で見知らぬ誰かと会うのだろうか。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
どうでもいいことが脳から溢れ出すばかりで、自分の手を握ってくる男にどう返せばいいのかもわからない。なぜ髷を、いや怒るべきか。そうだ、いきなり髷を切り落とされたのだから、自分は怒らなければならないはずだ。
「お……おのれ……」
武士の髷を切るなど斬り捨てられても当然だと、思わず腰に手をやるが刀は刺さっていない。正式な佩刀を許されていない景明が持っていたのは短刀に毛が生えた程度の飾りだったが、それすらないことに愕然とする。
そのときどたどたと足音が聞こえてきた。
「惣太郎(そうたろう)様! 惣太郎様はどちらですか!」
先ほどの円井の声だ。
「惣太郎様? 惣太郎様! ――あっ!!」
廊下に飛び出した円井は、自分と男を見て大声を出した。
円井はそこでたたらを踏んで滑り、床にばたんと倒れたあと、起き上がって、先ほど自分たちが下りた、庭への階段を這うようにして下りてきた。
「惣太郎様……黒田さん……?」
「い、……いえ、それがし、は……船は、その」
来たばかりの家で勝手に庭におり、いかにも秘密のように庭に鎮座している、大切そうな大きな船にいたずらをしようなどと、けっして思ったわけではなく、ただこの惣太郎というらしい男がいきなり自分を庭に引きずり下ろし、その短剣で髷を――髷を――……。
「――……」
景明は、惣太郎の手に乗せられた黒々しく光る髷と、口も目も大きく開いた円井を見比べたまでは覚えている。
「く……黒田さん!?」
円井の悲鳴を聞いたのを最後に、ふっと目の前が暗くなった。血が上下して熱くなった頬に、濡れた苔が冷ややかで気持ちがよかったことだけを覚えている。

 

 
急遽、そして限りなく応急的に、切り取られた髷は景明の後頭部に貼りつけられた。
――あんまり上を向かないでくださいよ? 糸で縫いつけてあるだけですからね。
残った髪を蝋でガチガチに固め、落ちた髷を女中が黒糸で縫いつける。辛うじて頭に貼りついたものの何しろ土台が弱い。擦ったら最後だし、髷の重みに耐えかねて、いつぽとりと落ちるかわからない。
自分から切り離された髷というのはもはや自分と同じ生きものではなく、一夜干しした魚を載せているのと大差がなかった。
「――惣太郎が、本当に申し訳ないことをした」
初めて会った当主は、挨拶や旅のねぎらいより先に、景明に頭を下げて詫びた。
大名を平伏させるような大商人だ。今日も江戸城に登城し、碁所の衣装を見立ててきたという。父親が登城したことすらない黒田家から見れば、雲の上のような大仕事をしてきた男が、座布団を外し、大きなふくよかな手で両膝を掴んで、髷がきっちり見えるほど深々と頭を下げている。
とんでもない状態だが、景明は何の言葉を発することもできない。武士が何の理由も、恨みさえなく髷を切られて、許せと言われて承服できるかどうか、想像だにしたことがないのでまったくどう判断すればいいのかわからない。憤死はしそこねた。泣くのはみっともない。たかが髷を切られただけで腹を切るべきか、かといって許せるものなのか。
ただ腿の上で握りしめた手をぶるぶる震わせるばかりの景明に、苦渋というならこれ以上ないほどに顔を歪めた当主、清左衛門は呻くように言う。
「次男の惣太郎の奔放には、わしらもほとほと手を焼いている。先日問題を起こして部屋に閉じ込めておいたから、今日ばかりは大丈夫かと思っておったのだが、貴殿にこのような……」
顔を上げて景明を見た清左衛門は、ふと何かが込みあげたように目を潤ませ、口許を手で覆って絶句した。
やはり武士が髷を切られるというのは、それほどの屈辱なのだと実感されて、景明も堪えている涙がまた喉奥から込みあげてくる。
「だから惣太郎など、さっさとどこか、養子にやってしまえばいいんですよ」
うんざりしたような声で言うのは、清左衛門の隣にいる若い男だ。年の頃は二十歳くらいか、真新しい紺色の小袖に、しゃれた模様の帯をしている。宗方家の嫡男、清次だ。父親とは少しも似ていなくてほっそりとした面に、妙にきれいな唇が女のようにつやつやしていた。
「そういうわけにもいかんだろう」
さんざん吟味されたあとの絞りかすのような答えを、清左衛門は返した。
「本当に、申し訳ない、黒田さん」
再び頭を下げられて、景明の心はようやく定まった。
惣太郎を許すか許さないかはさておき、目の前の彼らも惣太郎の悪行に困り、責任を負いかねている。彼らを責めてはならない気がするし、自分が仕えるのは惣太郎ではなく、目の前の二人だ。
この件の負い目があるかぎり、彼らは自分に優しくしてくれるであろうという打算もあった。許さぬと叫んでここを飛び出したとて、帰る家もない――。
景明は許すと言わない代わりに、「これから宜しく頼みます」という清左衛門の言葉に黙って頷いた。部屋に入る直前、円井に《ご挨拶がすんだら御膳を用意します。旦那様から魚を増やすようにと言われておりますから》と囁かれて、機嫌をよくしたのも本当だった。

 

 

 

 

試し読み2へ>>

 


 

おやおや……、と呟きつつ、是非試し読み2におつきあいください。
数日中にはUPの予定です。 >>UPしました。

黒田の話を書こうと思って、年月を遡ったら江戸時代でした。
そうか、江戸か、髷なのか。
髷でござるで、脇役の(本編中ではたぶん)悪役で死にネタという五重苦プラスαかもしれないので
発行数はとても少なめです。
お求めの方はお早めにお願いいたします。
Jガーデンは間に合う見込みです。見込みです。
でも黒田はかわいいと思います。
大丈夫そうな方は、どうぞよろしくお願いいたします!

 

 

 

2017-02-10 | Posted in 同人誌, 通販Comments Closed 

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