2017-02-17

「黒猫のためのパッサカリア」試し読み3

春の同人誌「黒猫のためのパッサカリア」

試し読み3

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玄関近くの板間に経理方はある。景明が一番初めに屋敷に入ったあの辺りだ。
「へえ、すごいじゃないか、黒田さん。おいちょっと、みんなご覧よ、すごい腕前だよ」
番頭が周りの使用人を景明の前に呼び寄せる。
仕事を始めるに当たって算盤の腕を試されることになったが、算盤は景明の得意なことのひとつだ。
和算に算盤は必須で、速さと単純さが求められる。大きな位は頭で勘定し、端数だけを算盤で置いて最後に合算する。単純に手を動かす数が少ないから早いし、回数が少ないということは間違いも減る。同じ数字がいくつもあるなら暗算でかけ算をして合算だ。着物にせよ品物にせよ、同じ値段の品が多いからひとつひとつ算盤で足していくよりも何倍も速く計算できた。
「これなら算盤は心配ないね。もういいから黒田さんは円井さんと、清次様のところに行って書の腕前を伺ってきておくれ」
この世の基本は読み書き算盤だ。武士も商人も同じだった。
武家の子として育った景明は、元々商人には不要なほどの読みの素養がある。算盤はこの通りだ。書は清次が判断すると言うが、これにも景明は自信があった。書面と帳面しか書かない商人と違って、武士と坊主は自分の分身とも言える書を遺さねば一人前とは呼べない。床の間にかけられるような表装をしたことはないが、このまま稽古を続ければ大名の代筆係として仕官の筋があるのではないかと言われたほどだ。
「さ、いきましょ、黒田さん」
「はい」
本来ならば父の清左衛門が品定めをするところだが、彼は今日、呉服の受注でまた江戸だ。一応跡(字)を清左衛門に見せるが、これは形式だけで、本当の判断は東山がする。東山にはすでに書き文字を何点か見せていて、武家らしい字だと誉められていたから心配はなかった。
円井の後ろを歩いて清次のいる部屋に向かっていたとき、庭を挟んだ反対側の廊下に、惣太郎の姿が見えた。
立ち止まりはしないが、こちらを窺っている。彼はだいたいこれ以上近寄ってこない。廊下の果てからこちらを見ながら、そのまま過ぎ去ったり、こんなふうに別の廊下や離れた場所からこちらを見るが、近寄っては来ないし声をかけてくることもない。
あの夜、顔を見せに来いと言われたが、一度も彼を訪れていなかった。訪れる理由もないし、髷のことをまだ心底許したわけでもない。かといって彼からの呼び出しもなく、円井も惣太郎が自分のことをどうこう言っていたとかいう話もない。
またからかわれたのか――。
招いておいて、招待の手配もしないとはつまり、そういうことだ。
何だかもう腹も立たなかった。何しろ初っ端から髷を切られたのだ。これ以上どう腹を立てればいいかわからないし、髷を切られたことに比べれば、見交わしたまま声もかけずにしらん振りをすることくらい、取るに足りないことのように思える。
景明は、自分を追う惣太郎の視線から目を外し、つんと前を向いた。自分の主は惣太郎ではない。そう思いながら数歩も歩かないうちに、清次の部屋から声が聞こえてきた。
「字の評定くらい、あたしでなくてもできるだろう? 早く籠を寄越しておくれ。時間がないんだったら!」
特徴のある甲高い声。清次だ。
「しかし、旦那様から、旦那様のお留守中はお出かけ不要と言われております。御駕籠は呼べません」
「馬鹿をいいでないよ。父上がいたら尚外出できないじゃないか!」
そう叫んだと同時に障子の奥から、がしゃん、と鈍い破砕音がする。
――女遊びが好きだ。
徳一の言葉を思い出した。
立ち止まりかけた円井が足を速める。
「清次様、清次様はおいででしょうか!」
清次を止めようという魂胆のようだ。景明も急いだ。
「清次様!」
呼びかけて障子を開けると、畳の上に壺らしい焦げ茶色の破片が散らばっている。その奥で仁王立ちになった清次が、掛け軸を掛けるための竹の棒を振りかざしていた。景明は「あっ」と声を上げた。番頭を叩こうとしているのだ。だが円井は落ち着いて間に入った。
「さあさあ、おふざけはそのくらいにして。黒田さんがお見えですよ。清次様も、用件は旦那様から聞いておいででしょう」
慣れた口調に、清次の我が儘はいつもこんなふうなのかと眉を顰めそうになるのを堪えながら、景明は入室した。
「硯は用意したのかえ? 黒田さんが来るって言っといただろ」
円井は額に赤い痣がある番頭を叱りながら、割れた壺をしらん振りして奥の文机に黒田を向かわせようとした。
こんな成り行きで書の品定めも何もあったものではないと思いながら、促されるまま文机の前で、袴の腿のところを軽く持ち上げ、膝をつこうとしたとき、机の端に、ぴしりと竹の棒が打ち下ろされた。
「なんの真似だい!? やめとくれ!」
女のような金切り声で清次が叫ぶ。目の虚が大きく眉が細いものだから、般若のような顔つきだ。
「清次様!」
さすがの円井も慌てて清次を止めた。いくら家来に迎えた身とはいえ、商人が武士を竹で打ち据えようものなら切腹どころでは収まらない。
「おやめください、清次様!」
打たれた番頭も真っ青になって清次を羽交締めにするが、ばたばたと動かした清次の足が、文机に当たって筆や小物を吹き飛ばした。
「洋髪なんて見たくもない! 出てお行き! 出て行けッ!」
「そんなわけには参りません! 旦那様になんと申し上げるのですか!」
「今すぐ出て行け! そんな頭、惣太郎を思い出す!」
「黒田さん、出ましょう」
驚くばかりの景明の腕を引き、円井は逃げ出すように部屋を出た。振り返ると障子を突き破った硯が廊下に飛び出すところだった。中ではまだがしゃんがしゃんと物が壊れる音がしている。
何という剣幕だろう。不機嫌なのはわかっていたが、親の言いつけを知っているはずなのに、部屋で暴れ、いきなり景明を追い出すなんて――。
目の前を歩く円井は、やれやれと呟きながら手ぬぐいで額の汗を拭いている。
「黒田さん。書はもういいです。どうせ形だけなんですから」
筆も触っていないのにそれでいいのかと思うが、あれでは評定など無理だ。それより気にかかることがある。
「清次殿と……惣太郎殿は」
「清次様、惣太郎様」
昨日からさんざん訂正されているのだが、様で呼ぶのは目上の大名ばかりだった。いくら主になったといっても商人の子をそんなふうに呼ぶのになかなか慣れない。
「惣太郎……さまと清次……さまは、不仲でございましょうや」
先ほども、機嫌の悪さより、景明に竹を振り下ろしたときでさえも、憎しみは自分に向けられているというより、ここにはいない惣太郎に向けられているように感じた。
――惣太郎を思い出す!
自分ではなく、惣太郎と同じ格好をしている景明が憎らしい。紐が付いているように、別のことも記憶から引きずり出された。
――惣太郎など、さっさとどこか、養子にやってしまえばいいんですよ。
あのときも、惣太郎の悪行を怒っているというより、毛嫌いしているという印象だった。
問いかけに振り返った円井が見たこともない怒り顔だったのに景明は驚いた。円井はぴしゃりと言い放った。
「お武家言葉はよしてください。うちが野暮ったく見えますわ」
今までの笑顔は全部嘘か――。
我に返ったあと、改めてムッとしたが、言い返せば自分が責められるのがわかっているから景明はそのまま黙った。円井の笑顔は鵜呑みにしないほうがいいとわかっただけでも収穫だと思わなければならない――。

 

 
裕福な屋敷で、水や飯の心配もなく、清潔な着物を着て、傘張りの糊桶と刷毛ではなく、筆か算盤を手にして過ごせる。
言葉だけを並べれば極楽のような屋敷で、景明は行き詰まっていた。
「お下がり! 髪が伸びるまで顔を見せるなと言ったのを忘れたのかい!?」
「しかし旦那様はこのままにしておけと仰せですし、お留守のときは、清次様のお側で御用を伺うようにと」
「ゴヨウなんてありゃしないよ! あっち行け! 早く出ていけったら!」
今日の癇癪もすごいものだし、そんなにあれこれ物を壊していて大丈夫なのだろうかと景明は思うがしかたがない。
部屋の隅に来ていた円井が視線で、退出せよと目くばせを送ってくる。今日もか、と心中で景明はため息をついた。
この通り、清次は景明のことが嫌いらしい。――景明というか、惣太郎を連想させる何もかもが嫌なのはもうはっきりしている。
東山に相談したが、東山は気に入られるまで通えと言う。下級武士など元々、意味のない出仕がほとんどだから、なんの目的もなく清次の部屋に通い続けるのはかまわないのだが、こうも毎日キイキイ叫び続けられると耳が痛くなりそうだ。
なんとかしなければ、と考えるが答えがない。東山の言うとおり、なんとかして清次に気に入られるしかない。今の主は清左衛門だが、実際のところ自分が一人前の家令になったときに仕えるのは目の前の清次だ。当主の清次に気に入られなかったら自分はここにいられない。
だがこれ以上、清次に気に入られる方法が思いつかなかった。元の通りに髷を結ったら、清左衛門に逆らうことになる。郷に入りては郷に従えと心に誓い、商家の家来になったのだと重々自分に言い聞かせて、言葉も何も改めてきたつもりだ。焦っても無駄だと思うが、かれこれ半月も経つのにこれではいずれ屋敷を追い出されてしまう。
清次も、はじめは惣太郎憎しと景明を怒鳴っていたのだろうが、最近は景明が憎まれている気がする。
誰も助けてくれない。
円井はこれでも精一杯庇ってくれていると思う。東山は清次がどうでも関係ない、家令の職を勤めること以外には無関心だ。
「食い詰め浪人なんか養う金は、うちにはこれっぽっちもありゃしないんだよ! 出てお行き! 乞食にでも何でもなっておしまい!」
暴言も景明は堪えることにした。貧乏だったが仕える主はちゃんといたから父は浪人などではない。だがそう言ったところで清次が理解するわけがないし、なお罵詈雑言がひどくなるばかりだ。
――じきに収まるでしょうよ。黒田さんにどれほど当たったって、今さらお生まれが変わるわけでもなし。
円井は不可解なことを言ったが、今はそれを信じて耐えようと思っている。帰る家はもうない。髷もなく刀もなく、人は自分をもう武士とは呼んでくれない。
「貧乏人は厚かましいね! 主の言うことが聞けないってえのか!」
清次が側の棚から掴んで投げた、銅器の香炉が景明のこめかみを掠る。見かねた円井が目の前に飛び込んできて、清次に叫んだ。
「いいかげんになさいませ、清次様! 旦那様に言いつけますよ!?」
その言葉を聞いた清次は、数秒きょとんとしたあと、首を傾げてにやりと歯を見せた。
「……あんたもかい? ――あんたも惣太郎の仲間なのかい!?」
けたたましい声をあげて笑った清次は、円井の襟を掴んで横へ押し退けた。
「円井さん!」
横倒しになった円井に慌てて手を伸べようとした景明は、頭上に何かが振りかざされるのを感じた。とっさに仰ぐと、黒い木刀が目に入る。
危ないとわかっているのに、息を呑むばかりで動けない。振り下ろされるまでの一瞬が、刻を薄い剃刀で無限に削いだように細切れだ。
いろんなことが頭を過ぎった。父のこと、兄のこと、妹のこと、母のこと、塾の同士、……月に煌めいた惣太郎のきらきらとした瞳――。
ガン! という音ともに、景明は刻の呪縛から放たれた。
自分の呼吸の音が聞こえる。目の前に竹箒がある。竹箒は景明の目の前でくの字にへし曲がっていて、そこに木刀が噛み込まれている。
「黒田を叩くな!」
障子が震えるほどの一喝をしたのは惣太郎だ。
驚いて木刀から手を離した清次は、跳ね飛ぶように後ろに下がって惣太郎を睨んだ。
「何の真似だい?」
興奮しすぎて真っ青になっている清次は、裏返った声で尋ねた。
「兄に向かってなんて真似だい!? 惣太郎ッ!」
「申し訳ありませんでした。しかし使用人を叩くと悪評が立ちます。お目障りなら俺が連れてゆきます、来い」
早口で断わりを伸べて、惣太郎は呆然と座り込んでいる景明の腕を掴んで立たせ、そのまま部屋を出る。
「そ……そう、たろ……」
引きずられるまま、どたどたと足音を立てて歩く景明に惣太郎は前を向いたまま告げた。
「兄がすまない。本来はああいう人ではないのだ」
斜め後ろから見る惣太郎は悔しそうな顔で涙ぐんでいる。何かわけでもあるのだろうかと思いながら、ようやく態勢を立てなおして歩いていると、不機嫌そうに惣太郎が吐き捨てた。
「おまえもおまえだ。木刀で叩かれそうになってじっとしているヤツがあるか! しっかりやり返せ!」
「しかし」
「武士なのだろう!?」
急に立ち止まり、振り返って惣太郎は真顔で怒鳴った。
目を見張って息を呑んだあと、漏れたのはぬるい笑いだ。
「……ふは」
「何がおかしい!」
詰問されるとよけいに笑いが込みあげてくる。急に力が抜けてしまった。悲しくなったのではない、何だか急に可笑しくなったのだ。
自分を武士と思ってくれるのはもはやこの人くらいだ。
もう武士ではない。もう武士ではない。心の中で繰り返しながら、その理性に従えぬ自分こそが武士なのだと信じていた。本心ではとっくにそうは思えなくなっていたし、これまで自分が武士だったのかと思い直すと大したことはしていない。
笑う自分を怪訝そうに見ている惣太郎に、景明は苦い笑顔を向けなおした。
「いいえ。わたくしは宗方家の使用人でございます」
商家の家令の言葉もほんとうはとっくに覚えてしまった。家の誇りや矜持は重く、どうしても心と世間の間に立ちふさがる壁を退けられずにいたのだが、この人の潔さと真っ直ぐさが一瞬で打ち砕いてしまった。
彼はやはりよくわからないような顔をしていたが、懐から懐紙を取りだして景明に渡した。
ただ何となく受け取ると、惣太郎が自分のこめかみにとんとんと触れる。
「痛むか?」
問われて懐紙を当ててみると、筋状の短い血が滲んでいる。先ほど香炉が掠ったときに傷ができたらしい。
「いいえ」
「本当にすまない。東山にも父にも、俺から伝えておく」
「そんなことをして、惣太郎様は大丈夫なのですか」
清次が嫌っている惣太郎が、清次の暴力を父親に告げ口したら、それこそ清次は烈火の如く怒るだろう。たった半月見るかぎり、惣太郎のほうが分が悪い。船乗りになりたいと言って塾を辞め、悪戯を尽くし、客人の髷を切り取る御家の悩みの種の次男坊の言葉を、父とはいえど、まともに受け取ってくれるのだろうか。
「ああ。大丈夫だ。兄の俺嫌いは生まれつきだからな。兄弟喧嘩なら父も放っておくかもしれないが、おまえに手を上げたとなれば、宗方家の示しがつかない」
こうして見ると清次よりよほどしっかりした人だ。それより気になることがあった。
清次が一方的に惣太郎を嫌う理由。そして円井が漏らした言葉も。
――今さらお生まれが変わるわけでもなし。
一方、徳一の忠告も浮かび上がった。
――御新造のことを訊ねるな――。
「夕餉のあと、俺の部屋の庭を見に来るか、黒田」
ためらっている間に惣太郎がそう言った。「はい」と答えたとき、「黒田さん、黒田さん?」と自分を呼んでいる円井の声に気づいた。円井も心配しているだろうし、清次の部屋を追い出されたと、いつものように東山に報告に行かなければならない。
「さあ、行け。俺といるとまた円井に小言を食らうぞ?」
屋敷の中の嫌われ者のようなことを言って、惣太郎は廊下の向こうへ歩いていった。何となく見送っていると彼は二度、軽くこちらを振り返った。

 

 

 

 
大きな屋敷の南側に惣太郎の部屋はある。
武家や大名の習いどおり、東側から一の間、二の間、とある。惣太郎の部屋はそこから離れた南側の一角にあり、すぐ近くに東山の部屋がある。虐げられたというほどではないが、主の子としては扱いはあまり良くない。
それでも部屋の前の庭は見事で、白石敷きで竹や苔が整った、若者らしいいい庭だ。
夕餉のあと、月が昇るのを待って惣太郎の部屋を訊ねてみた。
惣太郎直々の呼び出しであるから、円井にそう言うとあっけないほど簡単に時間の約束を取りつけてくれた。
縁側から片足を垂らしながら惣太郎は言った。
「兄は、俺が家督を狙っていると思っている」
明るくはっきりした顔に憂いを帯びている。顔立ちの美しい人だった。こうして横顔を見ていれば、このまま武士にしても恥じないくらい、二重がくっきりと切れた目許が凛々しい。
月影に照らされながら景明は座って彼の話を聞いている。
なぜこれほどまでに清次が惣太郎を嫌うかという理由だ。
「俺は家など継がない。そう言っているのに、兄上は俺を信じてくれない」
腑に落ちる理由ではある。だが清次が嫡男で、惣太郎は次男だ。これは覆しようがないし皆もその通り、清次を嫡男として惣太郎より格上に扱いながら暮らしている。
「……父が悪い」
惣太郎はため息をついた。
「父が俺を諦めないから」
それは前にも訊いた。どれほどの悪事を働こうとも父が諦めないからといって、とびきりの悪事を求めて自分は髷を切られたのだ。
「だからといって清次様が、惣太郎様を憎むのはお門違いです」
次男を家から追い出さないのが悪いなどと、納得できない道理だ。
「俺はなんとかして兄とむつまじく暮らしたい。否、暮らせなくてもいい。ただときどき当たり前に顔を見て、兄と呼ぶだけで十分だ。それなのに父が――円井も東山も、俺を諦めないから」
「それで悪さを――もしかして、塾を辞めたのも……?」
「そうだ。塾は血がたぎるようないいところだったのに、周りが天才だとか大袈裟に騒ぐから、その噂を耳にした兄上の機嫌を損ねてしまった。勉強なら家でもできる」
怠けたわけではないのか――だとしたら惜しいことだ。
我が儘や怠惰だと勝手に決めつけたことを白状して謝ろうかと景明が考えていたとき、さわりと上等な衣擦れの音を立てて、惣太郎が小袖の裾からおろしていた脚を入れ替える。
「……俺のことは聞いたか」
「奔放だとだけ」
こんな答えを望まれているのではないと、景明にももうわかっている。
「母のことは?」
「聞いてはならぬ、と。徳一から」
御新造のことは訊くな、という徳一の忠告はちゃんと守っている。
惣太郎は意外そうな顔をした。
「徳一が喋ったか、珍しい」
惣太郎は立てた右膝に腕を置いて、ふう、と息をついて庭を見た。
「俺と兄は腹違いだ」
二人とも清左衛門の面影はあるが、清次と惣太郎はあまり似ていないと思ったのはそういうわけだったのか。
「兄は妾の子で、俺は正妻の子だ。母を娶ったあと五年も子ができず、妾を迎えて兄をなしてから三年後に、俺が腹にできた」
それは面倒なことだ。
誰もが納得して清次が生まれたあと、本当に欲しかった本妻の子――惣太郎が生まれたのだ。
それでも兄は兄、弟は弟として暮らすように決めてきたはずなのに、と考えかけたが清左衛門はやはり心のどこかで諦めていなかったらしい。いつか正妻に子ができると信じて、妾から生まれた嫡男に「次」の字をつける。惣太郎は跡継ぎではないと言いながら、太郎という字を背負っている。これでは清次が父を信じ切れなくなっても責められない。清次では満足できない。隙あらば惣太郎と差し替える――そんな気持ちが名前だけでも見て取れる。
形の上では決まっているが、ギシギシと皆の心が軋み続けているのがわかる。先に生まれた妾の子、あとから生まれた本妻の子。世継ぎとしてどちらが正しいのか。誰も収まりの悪さを拭いきれない。
「ほんとうの、ご母堂は?」
この家には御新造がいて、それは清次の生母で今は実家に下がっていると、そこまでは景明も知っている。
「俺を生むとき、亡くなった。元々身体の弱い人でな」
だから徳一は訊くなと言ったのかと思ったがあとの祭りだ。
「東山が父代わり、乳母が母代わりだ」
裕福だが寂しい暮らしだ。兄に疎まれ、腫れ物のように扱われながら、家族のぬくもりを知らずに育ってきたのだ。
「……東山は俺を跡取りに据え直せと言うが、俺は今さら兄を差し置いて家を継ぐ気などない。誓って潔白だ。兄に嫌われるくらいなら、本当にどこかに養子に出て、字(あざな)を代えてもよかった」
そうまで思いつめた惣太郎に、今も清次は辛く当たり続ける。
「だから俺は、呉服と別の仕事を持ちたかった。例えば船とか」
「突飛すぎます」
「そうだろうか? それとも駕籠舁きにでもなるのが似合いか?」
「そうは言うておりませぬ。ちゃんと呉服所のご次男として、この家に住むのがいいと思います」
話してみると惣太郎はかなり利発なようだ。塾で天才とまで言わしめる頭脳があるとも言う。なによりその行動力が景明には想像もつかないことばかりだ。兄に嫌われているからといって黒船を買い、外海に出るなど、景明では思いつきもしないし実際船小屋や港へ行ってみるなど武士の習いが邪魔して行動に起こせそうにない。
景明は、うん、と唸って考えた。話を聞くところ、かなり長く根深い確執だが、清次に惣太郎の気持ちさえ伝われば何とかなりそうな気がする。
「清次様によくお話をしてみましょう」
「これまでさんざん訴えてきたものを、今になって兄が聞くだろうか?」
「ええ。惣太郎様がこれほどまでに清次様を思ってらっしゃることを、たぶん清次様はご存じないのです」
惣太郎が自分から家を取り上げると、呪いのように信じ込んでしまっているから、清次は惣太郎を家から追い出そうと躍起になっているのだ。その誤解さえ解ければ、ひと息にさっぱりするにちがいない。清次自身も安寧に暮らせ、惣太郎も家を出なくてすむ。
「きっと伝わります」
今度こそ物を投げつけられても木刀で叩かれようとも、惣太郎の思いを清次に伝えよう。それが自分の役目のような気がしていた。それに、そんなことすらできないようでは、今後御家のいっさいの信用を預かり、家を切り盛りしてゆく家令になどなれるはずがない。
「何か、清次様が喜ばれる物を考えてご用意しましょう」
まずは態度で示すのが先決だろう。東山や円井に清次の好きな物を訊いて、日柄のいい日に贈れば、ゆっくり話す機会くらいできるのではないか。
「……どうなさったのです」
惣太郎がじっと自分を見ているのに気づいた。
「いや、何でもない。それがいい」
提案を受け入れられて、景明もほっと笑い返した。

 

 

 

 
景明の部屋の庭先に呼んだ徳一が、口と目をいっしょに開いた。
「アンタ――普通に喋れるのか」
縁側の端に正座していた景明は、少々決まり悪く、徳一から目を逸らした。
「ええ。あれはよそ行きです。普段はこうですよ」
前回、いかにも武士の言葉と態度で接してしまったから、景明が気楽に喋るのに驚いているらしいが、景明の本来の感じはこうだ。ござる候。そんな言葉は武士の振る舞いにふさわしいと教えられてきたから使っていただけで、あくまで家の外で、武士の体面を保つための作法だ。これからはここが家になるのだから、家にいるように話すし振る舞う。南蛮風が必要だと言われるなら、自分が真っ先に取り入れてやると思うくらいの気概もあった。
「徳一。おまえを見込んで頼みがあります。聞いてくれますか」
彼にできるかどうかはわからないが、彼なら少なくともどうすればいいかを教えてくれるはずだ。
「あ、ああ」
「庭を飾りたいのです。かなり、広い範囲で」
景明には案があった。大名家の誕生日に採用された催しで、後々町で評判になっていたからこれなら間違いない、と思っていた。

 

 

 

 


 

 

時間があったらもうちょっと進みます。

 

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