2019-09-04

「初恋をやりなおすにあたって」番外編SS「いってきます」

キャラ文庫「初恋をやりなおすにあたって」の番外編です。

本編ご一読のあとにどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 初めて雪が駒を持ったのは、二歳のときなのだそうだ。
 今はもういない祖父の膝の上で、祖父の真似をして、駒を盤に置いたとき、祖父はそれはそれは喜んで、「雪は立派な棋士になる」と言ったそうなのだが、雪自身はその出来事をまったく覚えていない。
 それから間もなく祖父が入院し、そのまま帰らぬ人となったこと、雪自身がほとんど入院していていて家がどうなっているか知らなかったこと。つまり、それが雪と祖父との唯一とも言えるエピソードで、一生の予言のようなものとなった。
 その後、父に挟み将棋を習い、たまたま入院先の医師が将棋を指せる人で、病院のベッドの上に盤を置いておくと、ちょっとだけ指してくれるような人だった。
 ――おい、どうしよう。雪は将棋が指せるよ?
 父が嬉しそうに母に言ったのは覚えている。
 そのあと将棋の教室に通った。見知らぬ子どもがたくさんいて楽しかった。
 あっという間に将棋にのめり込むようになったとき、教室の先生がイベントに連れていってくれると言った。
 母と一緒に行くと、会場にたくさんの人が居て、教室より多くの盤があり、胸に花を飾った大人が何人もいて、一人が何人もの盤の相手をしていた。
 雪の相手は、父よりもだいぶん年上そうなおじさんだった。
 ――そう。ボクちゃんならどこに指すん? ……へえ。そこに指したらこっちが詰むけど、それでええのん?
 ――情の怖いボッチャンやなぁ。そんなに前に進んだら手許がスカスカやん。
 そのおじさんの指で駒が動いたとき、――正確にはそのあと現れた盤面を見たとき――急に世界がきらめいて見えたのだ。
 それまでも、将棋はとても楽しかった。同じ教室の子どもと、勝ったり負けたりしてその内容を母に報告する。雪にとって唯一の娯楽、数えるほどしかないコミュニケーション手段だった。
 でもそのおじさんが指してみせた盤面をみたとき、眼球というか、心というか、急に胸の中がキラキラしたものでいっぱいになって、雪は目を見張って思いっきり息を吸った。
 見えた気がしたのだ。盤の奥が。光る水面のような盤に、今にも手を差し入れられそうだった。
 夢中で指した。譲られているのを感じながらそこを一生懸命攻めたけれど、まったく歯が立たなかった。
 それなのに、雪の光る盤面は閉じなかったのだ。
 対局が終わって、木の板に戻ってしまったけれど、雪がそこを見つめると、すぐに盤は輝きだして、奥に何かがあると誘いかけてくる。
 びっくりして、おじさんを見た。
 おじさんは不思議そうな顔をして「見えるんか」と言った。
 一生懸命うなずいた。――それが有吉師匠だった。

 そのあとはまあ、よくある泥沼の話だ。
 天才少年だとか、有吉師匠の秘蔵っ子だとか、いいことはたくさん言われたけれど、もれなく反復と考え直しと、ダメ出しとやり直しと、失着と悪手と、頓死と否定と否定と否定と、負ければ存在ごと全否定されているような気持になり、ため息をつき、泣いて、それでも駒を摘まんで、失敗し、叩かれ、また打ちのめされて、それでも明日も駒を持つ。
 そうしてここまで過ごしてきた。
 途中、いろいろなことがあったけれど、こうしてプロ棋士として盤の前に座れるのだから、すべての願いは叶ったと言っていい。
「きついところはないか? 薬は確認したか? 飴とか、飲み物がいるなら買ってくる」
「ありがとう。大丈夫だよ、敦也くん」
 これから対局だ。タイトル挑戦権がかかる三番勝負の初戦だ。
 たまたま敦也が東京に戻ってきてくれているから、控え室に来てもらっていた。
 この部屋を出たら、終局まで敦也と会えない。
「一つだけ我が儘言っていい?」
「何なりと」
「ハグさせて」
「さあ、どうぞお姫様」
 リクエストに応えて手を広げてくれる敦也に、スーツ姿でしがみつく。
 敦也のぬくもりと、感触と、鼓動をチャージだ。
 これで十時間、戦い抜く。
 目を閉じて、大丈夫、と心の中で繰り返していると、敦也がそっと前髪を掻き上げて、額にキスをしてくれた。
「最後まで雪の思い通りになりますように」
 混乱して暴走したり、考えすぎてぼんやりせずに、冷静に最善の一手を導き出すように。
 敦也の線引きは正しい。自分を変に推測せず、世界の入り口からこちらに一歩も踏み入ってこなかった。
 その理解に、敦也にもう一度惚れ直した。彼自身、彼の世界を持っている証だ。
 だから、他人に干渉してくれる敦也――あの敦也がヘルパーだったほんの短期間は、雪にとって最大のギフト、そして奇跡だったのだ。
「ねえ。敦也くん。僕が敦也くんを佐賀に戻っていいって言ったこと、爽真は心配じゃないのかって言うんだ。せっちゃんは冷たいって」
 会えるのは十日に一回。予定が合わなければ一ヶ月くらい会えないときがある。
「うん……?」
「恋人とはいっしょに居たいだろ? って」
「まあ、それはそうだけど。俺は雪を好きになったわけだし」
「うん。あのね」
 今するべき話だろうか。でも、今しなければならないと雪の心が判断する。
「僕は、ずっと一人で、これからもずっと一人なんだ。父さんやお母さん、仲間も師匠もいて、みんな感謝してもしたりないほどよくしてくれるけど、盤の前に座るとき、僕はいつも一人」
 人生の多くを費やして自分を育ててくれた両親や、寄り添って指導してくれた師匠がいる人生を孤独と呼ぶ気は微塵もないが、盤の前に座るときは絶対に独りだ。
 誰も助けてくれず、誰も声をかけてくれず、苦しいときほど独りになって、助けてと叫んでも誰一人手を差し伸べてくれる人はいない。
 敦也もその例外に漏れない。
「そこで僕は生きてく。だから終わったとき、一番先に敦也くんに会いたいんだ」
 物理的にではなく、そこにいると信じたい。
「それだけでいいから、いつもいっしょに居なくてもかまわない」
 雪の理屈だ。感覚的なことだ。
 伝わる自信は一つもないが、もう将棋の盤が見え始めた脳では、これ以上説明はできない。
 敦也はそんな自分をただただ静かに抱きしめてくれる。
「大丈夫。わかってるよ。……行っておいで、雪」
「敦也くん」
「お前の世界で存分に戦ってこい。終わったら俺のもとに帰ってきてくれたら十分だから」
 終局したとき、そこに敦也がいなくても、自分は戻るところがある。
 敦也が佐賀で焼き物に挑んだあとここに帰ってきてくれるように、自分は戦い終えて羽を休める心の巣がある。
 本当にあるのだ。空間を越えて、ここに、確かに存在する。
 確信すると、安堵とともに脳の中に構想が溢れた。止めどなく今日、指したい将棋が目からこぼれ落ちそうに溢れてくる。
「うん。行ってくる。見てて。ちゃんと勝つから」
「いっておいで。今日は脇息倒すなよ?」
 先日の対局で、盤から離れているのに気がつかずに、体重のかけ方を間違って脇息を倒してしまった。
 うんと笑って、雪は部屋を出た。
 この一歩。
 これっきり、独りだ。
 寂しさも孤独も、身が凍るほどだが、不思議と怖くはなかった。
 世界には、敦也がいる。そう思うだけで心の奥に灯が灯る。
 雪は見慣れた廊下をしっかりと歩いた。

 冷たいほど明るい、盤が雪を待っている。

 

 

 


弓も、ピアノも、将棋も

袖を出たら誰も助けてくれないけど

そういう笑えるほどの孤独が好きだったりもするので

そういうときはまだ、帰れる場所があるんだなあ、って。

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