2015-10-28

「蒼穹のローレライ」おまけSS

本編がはじまる前の三上のお話です。
ネタバレはしませんが、予備知識なしで本編を楽しみたい方は、
読了後にご覧いただければ幸いです。

本編は本日発売です。
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どうぞよろしくお願いいたします!

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明日、恋を知る。

 うろこ雲が空を透かす穏やかな日だ。
 これから行く南方は、白く盛り上がった入道雲ばかりだったと、ブインから帰ってきたばかりの整備員が言っていた。
 三上はふんわりした日本の空が好きだ。このちりめんのような皺が寄った雲の隙間が、押し詰められて埋まってしまうと、雨雲になって梅雨が来る。南方にもスコールという大雨が降るという話だが、何日くらい降るのだろう。次々と、轟音を上げて空から飛行場に降りてくる航空機を遠く眺めていたときだ。
「ポンプだ、ポンプ!」
「手空きの総員、集まれ!」
 地上で唸っていた発動機の音が止まり、人の叫び声がする。なにごとだろうかと思いながら呼ばれるままに声のほうに走ると、飛行場の端に零戦が停まっているのが見えた。灰色の見慣れない塗装だ。外地から飛んできたのか。
 零戦は発動機のあたりから煙を上げていた。整備員が翼に上って風防を開けようとしているが、風防枠は大きく曲がって凹んでおり、動かなくなっているらしい。
「ロープだ! 鉤を持って来い!」
 翼の上の整備員が叫ぶ。窓枠に鉤を引っかけて、ロープで引き開けようという算段だ。
「おい、機体から離れろ、火を吹くぞ!」
 機体に取りつこうとする整備員の背を引っぱりながら叫ぶ男もいる。カウルの継ぎ目から漏れていた煙が急にもうもうと上がりはじめた。ときどきちらりと赤い炎を見せている。燃料が残っていたら爆発する。だが中にはまだ搭乗員がいる。
 三上は鉤にロープを結びつけている整備員の側に駆け寄った。運ばれてきた大型工具箱の中を覗き込む。
「一番大きいプライヤください! 装甲を剥がします!」
 悠長に鉤を作ってみんなで引っぱっていたら搭乗員が助からない。零戦の装甲は薄いから、横から破って引きずり出したほうが早い。
 プライヤを手に三上は翼にのぼった。
「よせ、三上! 爆発するぞ!」
「だから急いで! 棒もください! 木じゃなくて鉄がいいです!」
 服の脇を引っぱる整備員の手を振り払い、破れた装甲にプライヤのくちばしを突っ込んだ。薄いアルミの板を挟んで力任せに、無造作にべりべりと装甲を破る。
「ここをこじ開けてください! 枠は曲げて!」
 そう命じて三上は主翼を降り、機体を回って今度は右の主翼によじ登って同じような穴を開ける。
「ハサミください!」
 要求する三上に差し出されるのはロープも切れる整備用の大ハサミだ。
 プライヤで装甲の一部をバリバリと剥がし、そこにハサミに持ち替えた手を突っ込んでバチン! と搭乗員の腹にかかっている安全帯を切る。
「搭乗員、出るぞ!」
 風防の向こうから大声がする。引っ張り出せるほどの穴が開いたようだ。
 三上が機体を飛び降りて向こうがわに行くと、搭乗員が翼から降ろされたところだった。
「離れろ!」
 誰かのかけ声で今度こそ全力で機体から走って逃げる。三上たちが十分距離を取ったとき、零戦のカウルがぼうん、と赤い炎を上げて爆発し、プロペラが前方に向かって吹き飛んだ。おお、と声が上がる。間一髪だ。
 担架に乗せられている搭乗員は血まみれだ。
「どうしたんですか! 敵襲ですか!?」
 緊張して尋ねる分隊員に応える搭乗員のうめき声が聞こえた。
「……僚機と接触して、……二番機が……俺に気づかずに……」
 気の毒な話だが、敵襲ではないとわかってみんなほっとした。彼はすぐに病院に運ばれていった。
 厚木基地の飛行場は常時、緊急着陸があっても大丈夫なように整備員が常駐している。この零戦の事故相手もこの基地に来るかもしれないとして、待機の整備員を増やすことにした。
 まわりでは慌ただしく事故機の消火と始末の相談がされている。調査と報告のために搭乗士官がこちらに走ってくるのが見えた。
 三上は今日は別の用事があったので、作業の頭数には入れられなかった。
「……」
 なんとなくひりひりすると思ってふと自分の左手を見ると、手のひらに白い横筋が入っていた。熱された装甲を剥がしたときに火傷を負ったらしい。
 水ぶくれになるかならないかの軽い火傷だったので、すぐそこの水道にゆき、蛇口から直接手のひらに水を流す。
 誰も死なずに済んでよかった。
 手のひらに水を受けながらぼんやり水を眺めていると、建物のほうから人の気配がする。
「大丈夫か? 三上」
 担当班の搭乗員、大村飛曹長だ。先ほどの騒ぎを見ていたらしい。
「大したことはありません」
 三上は彼に微笑んだ。
「少し手のひらを火傷しました。念のためです」
 これが陸軍なら、その程度で痛がるとはたるんでおると怒鳴られるくらいの軽傷だ。日ごろなら手を洗って済ますところだが、今日明日は大事にしなければならない理由がある。
 大村はポケットから煙草を取り出しながら、傷を冷やしている三上の側まで寄ってきた。
「三上は誰にもああなのか。あんな命がけの無茶を……」
「整備員ですから。たまたま通りがかりで頭が冷静だったので、他の整備員に見えない方法が見えただけです」
 目の前に事故機が滑りこんできたら、自分だってまず風防を開けなければと必死になっていただろう。たまたま発見したときに機体と距離があって、機全体の様子を見たから、横っ腹に穴を開けたほうが早いと判断できただけだ。
 大村は心配そうに三上の手を見る。
「しかし限度というものがあるだろうが。爆発がもう数分早ければ、貴様は死んでいた」
「はい。でも大丈夫だとは思いました」
 あの爆発の大きさなら、少なくとも自分と搭乗員は死んでいただろう。しかしあのときの煙の量からすると、爆発まではもう少しだけ時間があると思った。間に合うという確信はなかったが、目の前で今にも死んでゆこうとする人がいるのに見捨てることはできない。
 水を止め、手ぬぐいで手を拭く三上に、大村が訊く。
「三上、貴様、南方に行くそうだな」
「はい。明日出発です。大村飛曹長にはお世話になりました」
「そうか、明日か」
 感慨深そうに大村は繰り返した。厚木に着任して以来、三上はずっと大村の隊の担当だったから一番縁の深い飛行隊だ。解隊されなければずっと大村の隊の整備員を務めていたはずだが、組織に属する限り、転属と解隊だけはどうにもならない。
「自分は一式陸攻の搭乗整備員に選ばれて後乗りですが、明日、ここを発ちます」
「どこへ行くんだ?」
「トラック島経由でラバウルへ」
 南の最前線基地だ。厚木にも連日、南方の活躍の知らせが入り、連戦連勝という話だが、敵と実際に刃を交える本当の戦場だ。転属を命じられて早五日が経ったが、落ち着いてきた今でもまだ、恐怖なのか武者震いかよくわからない震えがときどき身体に起こる。
「お? 何だ? 貴様、さては命の洗濯をしにゆく気だな?」
 大村が片眉を上げて三上を見る。血も凍る戦場とはいえ南は圧勝中で、物資に満ちあふれた華やかな基地だという噂は三上の耳にも届いていた。
「はい」
 三上が笑顔で応えると、大村の腕が首にかけられた。
「この野郎。調子に乗りやがって!」
 そのまま揺すられて三上は笑った。こうして遊んでもらえるのも最後かと思うと、さすがに淋しい気持ちが湧いてくる。大村は酒に酔うと真っ裸になって町に走ってゆく困った癖の持ち主だったが、本当に整備員たちを可愛がってくれるいい搭乗員だった。
 そのあと水場で大村から南方の噂を聞かせてもらった。ミッドウェー以降、負けが着くようになったのを三上も知っている。だが、艦で負けた分を航空機で取り返し、トラックとラバウルを足場に盛り返したところで、南は安定しているということだ。
 大村は煙草の煙を吐いた。
「……南方か。貴様、搭乗員に魅入られるなよ? 三上」
「なんですか、それ」
「おかしな意味じゃない。南は独特の雰囲気を持った搭乗員ばかりだ。たまに整備員を惚れさせる搭乗員がいる」
 もしかしてさっきも、大村は三上のお人好しを心配して声をかけてくれたのかもしれない。顔を見たこともない搭乗員を命がけで助けるのだから、惚れた搭乗員ならなおのことだ。しかしそれは搭乗員の思い上がりと杞憂であって、三上が彼を助けたのは三上が人間だからで、整備員だからだ。搭乗員が誰だって自分は最善を尽くす。人の顔を見て命をより分けるようなことはしない。
「それは例えば新聞に載っているような人ですか?」
 しかし三上にも何となく、大村の言わんとするところはわかる気がした。搭乗員の頂点ばかりが集められた基地だ。どれほど抜群の技量を持った搭乗員がいるだろう。そこで実際使われている機体はどれほどすばらしい整備がなされているだろうか。自分が整備した機体で一日十機も墜としてきたと言われれば、男惚れのひとつもしようというものだ。だがやはり整備員の誠実とは別の話だ。
「まあな。会ったことはあるか」
「挨拶程度なら。俺なんかじゃ、口も利いてもらえませんが」
 南方に行っていた搭乗員がときどき基地に来訪することがある。無事に勤めを終えて帰還してくる隊もある。だが彼らは三上たち整備員からすれば神さまのような人たちで、整備員も整備長が特別により分けたような人間ばかりが着く。三上もそこに交じったことがあるが、それでも到底搭乗員と気軽に会話できるような雰囲気ではなかった。
「かっこいいですからね。ああいう人の機の整備をしてみたいものです」
 実際、ラバウルに行けばすることになるのだろうな、と思ったがどこかまだ他人事のようだ。と考えたときふと、三上は大村の視線に気づいた。
「……大村飛曹長の整備も任せてもらって光栄ですよ?」
 三上はにこりと大村に笑いかける。南方が活躍しているのは確かだろうが、大村だって台湾帰りの立派な搭乗員だ。尊敬しているし、信頼もしている。
「三上、貴様はなあ」
 大村は煙草の煙まじりのため息をつく。
「搭乗員タラシかもしれんぞ?」
 何をしてそう言われているのかはわからないが、
「お褒めに与り光栄です」
 こう答えておくのが礼儀だろうと思いながら、三上は大村に笑顔を返したあと、呑気に広がる薄曇りの空を見上げた。

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余裕ぶってるけど、あなたは明日……。という話です。

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