2016-08-08

「郵便飛行機より愛を込めて」おまけSS

「ブルーグラフ1945~郵便飛行機より愛を込めて」の発売を記念して
おまけSSを置きます。
「天球儀の海」のネタバレになるので、本編読了後にご覧ください。
応援してくださったかたには、本当にありがとうございました。

 

 

 

「天球儀の海」番外編
「遺書」

 

 

 

 

希は資紀のアパートの掃除を任されている。
資紀もいっしょにすると言うのだが、何せ彼が参加するとなにごとも大変になる。《掃除も訓練のうち》と言われていた予科練や兵学校の頃ならまだしも、社会人として朝から遅くまで会社で働き、閉店間際の定食屋でやっと食事を腹に入れ―――それさえときおり食べ損ねるのだが――くたくたになって帰宅してから、家中をぞうきん掛けすると言い出されてはたまったものではない。
なので、簡単な掃除を希は進んで請け負い、週末は資紀とふたりで掃除、月に一度は丁寧な掃除をすることにしている。
――十分だと思うけどな。
心の中で呟きながら、希は腰に差してあったハタキで、本棚に並んだ本の天をすっと奥まで撫でた。
資紀は《社会人だから、多少、私生活がだらしなくなってしまうのはしかたがない》とため息をつくが、このアパートは資紀と希の二人暮らしだ。散らかす者もいないし、二人とも日中は留守だ。他に人もいないので埃も立たない。
しかし、これで資紀の気が休まるならお安い御用だと思いながら、希はハタキを腰にさし、ぞうきんで棚の前や横を拭いた。
資紀の部屋の掃除というのはやりやすい。元々整頓癖があるから、純粋に掃除だけだし、触っていいものとか悪いものとかの区別もなく、気を使う場所がまったくない。
――お前に見られて困るようなものは、この部屋には何一つない。
ひきだしも通帳も本棚も、すべて好きにしていいと言う。日記すら見ていいと言われ、さすがにそれは無遠慮も過ぎると思ったのだが、資紀がほとんど無理やり広げて見せてくれる限り、資紀が日記と称するものはほとんど記録簿だ。今日はどこどこの会社の何々専務と会食、何時から何時まで、店の名前、取引内容について。あるときは家賃の値上がりについて、灯油の価格について、バスの時刻表の覚え書き、気になるポスターの掲示場所。
日記と言えば日記なのだが、確かに見られて恥ずかしいことなど一つもない。
――おまえの日記は……、と、切り出されそうになって、希は慌てて「もう書いておりません」と応えた。昔のような長い日記は書いていないが、手帖には資紀が好きな料理屋の名前とおしながき、酒の種類、資紀の横顔が美しく見えたとき、その稜線を思い出しながら、たった一本線を引いたものもある。分量はごく少ないが、ほとんど資紀が好きだと書いているも同然だ。到底見せられたものではない。
昔からこうだったけれど、本当に清廉潔白な人だ。
部屋を見るかぎり、人間味が少ない――というのは悪い意味ではなくて、資紀自身が心の中まで整頓されたきれい好きな人というだけで、本心は誰よりも優しいことを希は知っている。
端から棚を掃除していたとき、いつもの場所に行き当たって、やはりいつもの通りに木箱を眺めた。目線よりやや高い位置、陽が差さない場所に長細い木箱が詰められている。
隣には本が並んでいるが、けっして木箱の上に物が置かれることはなく、大切にされていることが知れる。
こちらを向いている面には墨で、《貴重》と書かれ、二本の紐で蓋が固定されている。
中味を希は知っている。初めてこの部屋に来たとき見せてもらった。
――断ち落とされた自分の右手の先だ。
希を助けるため、資紀は希の右手を切り落とした。その後、手首は資紀の懐に入れられて本土の飛行場を飛び立ち、航空機が海に墜落して、アメリカ軍に捕らえられたあともずっと、資紀が持っていたというのだ。
手首はとっくに乾燥し、干物のようになって綿に包まれている。もうどう足掻いたってこれをくっつけられたりはできないのだから、法的な問題がなければ捨てていいと希は言ったのだが、そんなことができるかと叱られて、相変わらずここにある。
希は木箱を眺めた。
あれ以来、一度も見てはいないのだが、どうなっているのだろう。
「……」
資紀からは、触ることを禁じられていない。捨てることは許されないが、箱の中を見るのは自由だ。
興味ではなく、悲しさからでもない。ただ何となく見てみたくなって、希は棚から箱を取り出した。
やはり、箱の上にも貴重、取扱注意、と書かれてある。紺色の紐を解き、蓋を外すと中から綿が出てくる。
樟脳のにおいがする。乾燥剤がいくつも入っている。
それらを丁寧に取り出して、綿を掻き分けると、あの日と同じ、乾燥した右手が入っていた。乾いた木のように捻れ、飴色に変色した皮膚に微かなうぶ毛のなごりがある。
これが自分の右手だと言われても、なかなか実感は湧かないが、よくよく見ると爪の形が左手と同じだった。
想像通り、こうして眺めてみても、悲しみや怒りなどは湧かなかった。元自分の一部だったものに対しての微かな愛着と、生きていてよかったと改めて実感するばかりだ。
懐かしい写真でも見るのに似ているのかもしれない、と思いながら、希が乾燥剤などを元の通りに箱に入れようとしたときだ。箱の壁にぴったり沿うように、白い封筒が入れられていることに気づいた。以前は気がつかなかったものだ。
なんだろうと取り出してみる。
封筒の表には「願」と書いてあり、裏に資紀の名前が書かれている。相変わらず達筆だなと思いながら何となくそれを眺めたあと、ぎょっとしてしまった。
成重資紀――昔の名前だ。
封はされておらず、中味は簡単に読めるが、自分が読んでいいものだろうか――。
資紀がこれを計算に入れていないとは思わない。見るのも見ないのも希の自由、読んだ希がどんな感慨を抱こうとも、その責任も資紀は負うつもりだろう。
しばし悩んだが、希は中味を見ることにした。
謝罪の言葉が綴られているなら、資紀に突き出して、これだけは始末してもらおうと思った。
もはやこれは自分の一部ではない。髪や爪と同じ、自分から発生した、生きるために切り捨てるべき死んだ細胞なのだ。こんなものを側に置いて、資紀がいつまでも苦しむことはないと、軽い怒りと悔しさを覚えながら、希は四折りにされた便箋を開く。
願、と、一行目にあった。
《私が不慮の事故で、どなたかがこの部屋を始末することになったとき、
下記の願いだけは叶えていただきたく、切に望む。
この手首は、私の大切な人の手なるものにて、下記住所まで丁重に届けていただきたく願う。》
として、その後に希の実家の住所と、希の名前が記されている。
《もし何らかの事情にて、受け取られなかった場合、私の棺に入れ、もしくは同じところに埋葬してほしい》
後は、延々とにかく丁重に扱ってほしいと書かれているばかりで、詫びの言葉などはない。
ただ希に手首を返したかっただけなのだろう。あれほど嫌がっている本名を晒してまで、特攻に失敗し、家を守る役目からも逃げた無責任な臆病者と思われるだろう、と言っていたにもかかわらずだ。許されるとは少しも思っていないのは、今の資紀を見ていればわかる。
一から作り直した自分の名誉を汚してまで、ふたたび希のために身を捧げようと資紀はしていたのだ。
希は手紙を手にしたまま、涙を落とした。どこまで優しい人なのだろう。どこまで丁寧な人なのだろう。
希は、手紙や樟脳などを元の通りに箱に収めた。
一旦蓋をして、自室に戻り、便箋を取り出して万年筆の蓋を開ける。
左手で文字を書くのももうすっかり慣れた。
同じく、願、から書き出す。
《この右手は、私の右手です。
もし不慮の事故にて、ここに右手が残ったときは、
私の身体の一部として始末していただき、
可能なら骨になったあとも、資紀さんの側にいたいです》
こう書くことが許されるかどうか希にはわからない。だがこの手紙を誰かが見るとしたら、希がいなくなったあとだ。なりふり構わず願ってみる価値はある。
希は最後に署名をし、箱の側に戻って、同じ封筒の中に便箋を忍ばせた。
元の通りに紐を結び、箱を棚の中にしまう。
「……秘密の箱だったんだな」
きちんと治まった箱を見て、希は感慨深く呟いた。
ただの右手が入った箱だと思っていたが、この中には資紀の誠実さと、資紀の本名がしるされている。そして今、希の秘密も入れてしまった。
これがふたたび開かれる日、世界はどうなっているのだろう。箱を眺めながら希は想像する。いずれにしても満足で幸せな日に違いないと、濡れてくったりとしたぞうきんをふたたび手に取りながら、希は掃除を再開した。

 

 

 

END

 

 

 

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本編収録の「嫁に来ないか」
有名な歌がありますが、出だしとサビしか知りません。
嫁に~来ないか~、僕のところへ~ふふふーんふふーんふーふふーん。です。
そして
よーめに~嫁に来ないか~ふーふふーん、ふふふ(ry
私の中では、強烈なスカウトのような歌で、この機会に歌詞をよく調べようかと思いましたが
あの二人はこれで合っているので、このまま過ごすことにしました。

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