2016-12-24

「さよならトロイメライ」SS「朝の始終」

「さよならトロイメライ」が発売になりました。
おまけのSSを置きます。
ネタバレするかもしれませんので、本編読了後にお読みいただけますと幸いです。
普通の日の何でもない朝の話。

 

 

本編、詳しくはこちらへ。
同人誌「溺れる夏の庭」も合わせてどうぞ。

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朝の始終

 

 

 

 

寝起きの鉄真の機嫌は悪い。
朝の紅茶の用意をしたワゴンを押してきた弓削は、小さくノックをしてから暗い室内に入った。天蓋付きのベッドの中に、パジャマ姿の鉄真が埋まりこむようにして眠っている。まだここで大人しく寝ているうちは身体は大丈夫なのだろうと弓削は察している。日本屋敷のほうに帰って寝間着を着て寝たがるときは、いよいよ仕事に殺されそうになっているときだ。
静かに部屋の壁際を歩き、カーテンを半分開けて、またワゴンの側に戻る。
目が覚めてもなかなか目を開けず、ベッドの中でため息を繰り返す。
眉間に皺を寄せて額に手をやるようになってから、弓削は静かにベッドに近づき、二重にしている重箱から取りだした、湯で搾ってきたタオルをそっと手に握らせるのだ。
しばらく時間をおいてからタオルを開いて手を包んでやる。指の長い、男らしい手だが、力仕事をしない手は美しいものだ。爪は白いところが必ず二ミリ。毎日彼の手を見る自分がやすりをかけ、十年前からこれ以上長くなったことも短くなったこともない。足も同様だ。彼の前に跪き、真っ直ぐな足の爪の先を整えることは、弓削の大きな喜びのひとつだった。
鉄真はいささか低血圧の傾向があるらしく、目を開けて起き上がってもなかなかすぐに活発にならない。
ベッドの上に上半身を起こし、重たそうに頭を抱えてため息をつく姿を気の毒に思いながら、弓削はふたたびワゴンの側に戻って、朝のお茶の準備をする。
ケニアから運ばれてきたアーリーモーニングティーは、横浜に住む英国人のブレンドだ。朝焼けのような赤。太陽を溶かし込んだような鮮やかな紅色をしている。
朝一杯は、喉の渇きを癒すのを目的とするため、薄めに入れるのが宗方家の決まりだ。そして朝だけひとつ砂糖を入れる。こうすると午前中の調子がいいのだそうだ。
紅茶の準備ができたら、弓削のほうから声をかける。
「おはようございます、鉄真様。穏やかな、よいお天気でございます」
天候はなるべく正確に告げなければならない。天候は晴れ、昨日と変わらない爽やかで風のない日だ。
トレーごと紅茶をベッドに持ち込む。ほとんど無言で鉄真はモーニングティーを済ませ、そこでようやく「変わったことはないか」と尋ねてくる。
《変わったこと》というのは、家の事変だけではなく、朝に届く新聞の見出しについてだ。
しかし何でも大きく記事になったものを告げればいいわけではない。華族の没落、銀行の倒産、大きな入札、自然災害、宗方家の事業に関係のあるできごとだけをより抜く。そのために弓削は朝一番に、届きたての新聞に先に目を通さなければならなかった。おかげで一歩も外に出ない生活だが、世間の動向だけはよく知っている。
たいがいの日は「特に変わりはございませんでした」と応え、鉄真の身支度に入る。今日もそうだった。
隣室に移り、洗面をする鉄真の傍らでタオルを持って待つ。口をすすいであまりにも髪が跳ねていたら水をつけるが、この段階ではまだ油はつけない。
食堂に向かうと、一誠と三鈴が待っているのが常だ。
一誠は鉄真に輪を掛けて寝起きが悪く、どちらかといえば寝汚い。
髪がぼさぼさのままでぼんやりした顔のまま食堂に来る日もあるし、おはようと陽気に挨拶を交わし、あかるい雑談をしながら食事をしてもパンがびしょびしょになるまで醤油をかけたりする。三鈴はさすがにしゃんとしていて、上品な佇まいで朝食を取りながら、彼らに今日一日の予定を話すのだが、本当に概要のみで、重要な話はしない。三鈴も彼らの寝起きの悪さをわかっているのだろう。
白が基調の食堂は、朝日が差し込んで明るい。
パンとゆで卵、ソーセージとベーコン、コンソメスウプなどの朝食を給仕しながら朝食を終え(ちなみに弓削の食事は一日二度、昼と夜だ)、そのあとサンルームに移って窓辺のソファで紅茶を飲みながら、鉄真はじっくりとアイロンをかけなおした新聞を読む。清潔な朝日の中、壁際に佇んで、替えの茶の用命を待ちながら弓削は朝のひとときを過ごす。
朝食が終わると、鉄真について衣装部屋に行く。畳の上に洋物の家具、壁には大きな鏡という、衣装部屋独特の設えだ。
今度は仕事を始めるための身支度だ。
先ほどの服を脱ぎ、衣装盆に揃えてあった折り目の利いたズボンに履き替え、襟の固い、白いシャツを着る。
別の小さな盆の上に、ズボンに合うベルトを三つ揃え、その中から鉄真は一つ選ぶ。鉄真がベルトを締めている間に背広を用意する。
平常、背広はだいたい均等に着回すようにしていて、来客があるときなどはその都度ふさわしいものを選ぶが、どれを選んだところで鉄真のクロゼットに入っている背広なら十分だ。
背広とベルトを決めると、自然にネクタイが決まる。鉄真が鏡を前に、ネクタイを締める姿をうっとりと眺め、終わると同時にベストを着せかける。ボタンを止めるのは弓削が担当している。床に膝をつき、鉄真の適度に厚い胸元から腹をいくつもついた小さなボタンで留めて行くのは至福の作業だった。
そのあとふたたび立ち上がって背広を着せかける。今日の背広は英国製の濃い灰色だ。羊毛の、きめ細やかな風合いが優雅で、弓削のお気に入りの一点でもある。
鉄真を猫足の椅子に座らせ、ここで靴下を穿かせる。鉄真の目の前に跪いて、黒い漆の盆に畳んでおいた靴下をつま先に通す。彼の膝に頬を擦りつけそうになるのを耐えるのが必死だ。
靴下はそのままだと下に弛んで落ちてしまうので、鉄真の硬いふくらはぎに細いベルトを巻き、そこから垂れる留め具で靴下の上部を留めて吊るす。
その次は髪に油をつける作業だ。身支度というのは儀式に似て、非常に恭しく厳格に行われる。
「失礼します」
麝香の錬油を小皿に出し、弓削が指先で彼の髪の毛先に擦り込む。
髪油は髪に艶を出し、整髪しやすくする油だ。
鉄真は髪を短くしているから撫でつける必要はなく、形を整えるだけのところが西洋風の品をかもしだしていて、侯爵家の子息から、髪の整え方を教えてくれと言われたときには密かに、弓削は心中で得意になったものだ。
指先で細く毛束を取って先端にだけ付けるのがコツだ。一度にべったりとつけず、爪の先に摘まめるほどの毛束を取って、何度も何度も繰り返すことが重要だった。付け終わったら流れをつけたいところをつげの櫛で整える。整えすぎると取り澄ましすぎるので、これも梳きすぎないことが肝要だ。
汚れ防止にかけていた鉄真の肩の布を外し、弓削は濡れた手ぬぐいで指の油を拭き取る。
ここまで来るとあとは微調整だ。
静かに椅子から立ち上がる鉄真を、数歩下がった位置から眺める。
髪の長さはちょうどよく、艶もいい。鉄真の黒髪は元々まっすぐで鋼のような艶がある。その先端が油で濡らされて陽光を浴びたときだけ煌めくさまは、彼の周りで星が囁くような美しさだった。
シャツの襟の仕立ては、弓削がいちばん気に入っている形だ。普段鉄真のすることに自分から意見をすることはないのだが、これだけは違っていた。鉄真の精悍で長い首元を飾るものだ。「この形を取り入れてくれて」と頼み込んでこの種類を多くそろえてもらった。仕置きを覚悟で無理を言った甲斐があったというものだ。鉄真の首筋をこれほど清潔に見せるシャツの襟はない。
そしてネクタイだ。何の変哲もない上等なネクタイと思われがちだが少し違う。針仕事の天才と呼ばれる女中に、結び目になるところに薄い布を仕込んでもらって結び目が絶妙の大きさになるよう調整してある。タイの結び方は巻きつけかたと締め具合で大きさを決めるものだが、これは人工的に調整してあるものだから、何度結んでも同じ形が保たれるし、午後から崩れてしまうことがない。ネクタイピンは特徴的な赤を染めた有田焼の欠片を嵌め込んだものだ。鉄真の発案でこのネクタイピンを作らせ、外国人が集まるパーティーに出たところ、瞬く間に二百個を売り上げた商品で、今でも鉄真のお気に入りとなっている。
ベストは格式の高いときには揃いのもの、流行を競うだけの気軽な場所へ行くときは派手な色合わせをする。今日は特に来客もない通常の仕事の予定だから、背広より僅かに明るいベストを用意した。鉄真の締った胴体がちらちら見えて、官能この上ない有様だ。鉄真の側に来た女性は漏れなくここに目を遣るのを知っていた。スマートに身体に沿うベストの内側の、彼の引き締まった肉体を無意識に想像しているに違いない。
背広はもはや言うことがない。十年以上鉄真の身体を採寸してきたテーラーは最近、英国の一流テーラーを店に招き入れ、さらに仕立てに磨きをかけているという。どんなパーティーでも鉄真以上にいい背広を着ている華族はいない。鉄真が言うには「どこで買ったか、どこで仕立てたかを尋ねられるのも俺の仕事だ。謂わば歩く広告なのだからな」ということだ。宗方の商品がいかに最新で洒落ているか、高級で品性があるか、パーティーに出れば鉄真自身を見るだけで、大声で喧伝しなくとも効果は絶大だ。
鉄真の言うことはもっともだが、弓削には心に秘めているもう一言がある。「その効果にはあなたの魅力が含まれていない」だ。同じ商品を買ったところで、鉄真と同じにはならないことを顧客は理解しなければならない。
鉄真は目的がない限り、指輪などの装飾品はつけない。特別に売りたいものがあるときだけ「それはどこで求めたのか」と問われるためだけに身につけてゆくが、今日は屋敷での仕事だからそれもしない。だから今日の支度はこれで終わりだ。
「本日もお美しくていらっしゃいます」
弓削は感嘆で胸を震わせながら、我が主の姿に心からの賛辞を送った。以前、女性を誉めるようなことを、と、鉄真に苦言を呈されたことがあるが、美しいという言葉以上に彼を的確に表する言葉を見つけられないのだから、そう言うしかない。
鉄真が鏡の中の自分を確かめている間に、外していた手袋を嵌める。
弓削の朝の仕事はここまでだ。このあと三鈴が待つ執務室に行き、一仕事こなしたあとに自分が執務室に入って仕事の世話をする。時間はだいたい十時と決まっているが、それまでの時間を千秋の思いで弓削は待つことになる。
鉄真が鏡から離れ、庭に続く障子へと向かった。
「いってくる」
「いっていらっしゃいませ」
更衣所を出て行く鉄真を、弓削は白手袋を嵌めた手をそっと胸元に当て、室内から礼で見送った。
弓削の目の前には開け放たれた障子と、初夏の花が咲き乱れる庭がある。
今日も一日、あの人にとって素晴らしい日になりますように。そう願いながら、弓削は使い終わった盆や使われなかったネクタイの整理をすべく、部屋の奥へ向かった。

 

 

 


 

 
普段はこうして淡々と暮らしてゆきます。
弓削は仕事が大好きです。鉄真の側の空気を吸って
幸せに生きられます。

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